短編小説

赤い月が手を伸ばせば届きそうなくらい間近に浮かんでいる夜だった。
息をするのも億劫になるくらいの湿度はフロントガラスを曇らせた。
当時手に入れた車はエアコンなどとうの昔に壊れており、スイッチを入れるとエンジンの熱が吹き出す。オーバーヒート気味の時にはむしろ点けなきゃいけないという難しい車だ。
一年の半分を工場で生活しているその車が久し振りに返ってきたので、試験中だというのにあてもなく取り敢えず走り出した訳だ、水温計と視界を気にしながら。
「そう言えば夕飯食べてないな・・・」
車が少なくなってきた路は走り易い。中央分離帯の木がざわめく。
「今日の試験は大丈夫だったな。明日のは・・・まぁ平気だろ」
少し水温が上がってきた。速度を上げてラジエーターに風を送る。
かろうじて動くラジオからは地方局FMらしい真ん中からちょっと外れたナンバーが流れる。感度は悪いが真剣に聴く訳でもないので構わない。
地方局FMはまるでAMのようにトークが多い。
聴き辛いが怪談のようだ。
定番より視聴者からの投稿の方がリアリティーがある。
証明出来ないものは信じないと公言していた僕は怪談など怖くない。
「試験の方がよっぽど怖いよ」
街灯の間隔が短くなる。
水温は更に上がる。
「本当に治ったの?これ」
怪談はもう聴こえない。
信号の間隔が短い。
法定速度は大分前に超している。
水温計の針はもう黄色ゾーンだ。
右足を踏み込む。

一瞬黒い何かが見えた。

もう遅い。ブレーキは間に合わない。

右足を更に踏み、右へ逃げたのを覚えている。

「猫だ!」
「轢いた!」

同時にラジエーターから白煙。

停止。

100メートル程走って戻って確認する。
轢いた形跡はない。
が、あいつも見当たらない。
半径10メートルほどを真っ暗な中探すが見当たらない。
更に捜索範囲を広げる。

「居ない」
「避けたのか?」

出来れば手当を、さもなくば弔ってやろうと思ったが見つからない。
後味が悪い。

冷えるのを待ってラジエーターに水を継ぎ足す。
こんな事はよくあるので水を積んでいた。
継ぎ足しながらゆっくり帰る事にする。
信号の間隔が異常に長い。
眠くなってきた。

と、今度は明らかに「人」が飛び出してきた。

急ブレーキ。

速度が低いとは言え突然だった。
横断歩道も何もない、僅かに暗い街灯だけがある広くない路。
飛び出してきた人は倒れたが当たってはいない確信があった。

「大丈夫ですかっ?」前に出るが

居ない・・・。

「あれ?」

気のせい?まさか?一晩に二回も・・・なんて日だ。
「感じてる以上に疲れてるのかな?」

再び乗り込むと曇ったフロントガラス越しに人影・・・
しかも真っ直ぐ近づいてくる。
赤い月あかりだけの赤い夜。
段々近づいてくる速度が上がる。
「マジかっ!」
上手くバックギアに入らない。
「またこれだ!くそっ!」
甲高い大きな音が自慢の煩いクラクションボタンを思わず鳴らすと・・・いつもと違う音色・・・


「�ニャー🐈」

2017年08月11日